性教育の履歴書

最近ネットニュースをみていて、

「妊娠の仕組みがわからない」――「不十分な性教育」に気づいた大学生たちの学び

https://https://news.yahoo.co.jp/articles/76ce91a22dee252d6ad0a512965b3df9e1d59055

というサイトを見つけましてね。

その中で「性教育の履歴書」を学生たちに書いてもらうという取り組みをしている教授の話を聞きまして、「これは面白そうだぞ」と自分でもやってみようかなと思ったわけです。

 

そもそも私が初めにこのサイトを見た時には、正直「妊娠の仕組みがわからない」という女学生の発言に衝撃を受けまして、しかもそれが「性教育を受けていないから」とあるわけですがね、いやそもそも妊娠の仕組みって性教育の授業(つまり保健体育)として学ぶようなものなんでしょうかねと、素朴に疑問に思ったわけです。

子宮の中で精子卵子が受精して着床して云々……みたいな具体的な話はともかく、人間だって基本は生物なわけですから、保健体育ではなく生物の授業で知識は十分賄えるはずでしょう。それこそめしべとおしべが受粉して……と仕組みは同じなわけです。でもそれはそうですよね、だって有性生殖の生き物という観点では(植物が「生き物」に当たるかは少し議論がありそうですが)同じなわけですから。

雌雄同体のカタツムリとかね、雌雄変化するクマノミとかね、それこそ無性生殖のアメーバとかなってくるとややこしいですが、人間はあくまで多細胞生物の哺乳類に分類されているわけで、それなら生物で習ったようなことと仕組みは全く同じだと、少し考えればまあわかるわけです。

メンデルの遺伝法則とか、染色体分裂とかは中学生物の範囲ですし(確か)、精子とか卵子という言葉を最悪知らないとしても「とりあえず遺伝子を包んでいる(?)染色体というものを男女それぞれが持っていて(それこそXXやXYくらいはやりますし)くっついたり離れたりして、それで新しい細胞が出来て赤ん坊になるらしい」くらいまでは生物の授業から予想出来るだろうと。

子宮、卵管、生殖細胞前立腺……等々の細かい名称は知らなくても、まあ見た目で男女の体の作りは明らかに違うわけですし、それこそ「おちんちんがついていたら男の子、そうでなければ女の子」くらいの認識は幼稚園児でも持っているわけですから、最高に世間知らずな深層の令嬢だったとしても生物の授業さえ聞いていれば「とりあえずなんだか知らないが、何かのアクションを起こせば体の中で染色体分裂が起こる流れにまで向かうらしい」とは予想できるのではないかと。

まあその「アクション」が何なのかわからないと話にならないというのは実際そうですし、中世くらいまでは貴族のお嬢様とかになると、それこそ「キスしたら子供が出来るのでは」という仮説を結婚まで真剣に立てていることもないではなかったわけですが(『性の倫理』という本で、あまりに性教育をされなかったせいで結婚後に真実を知って寝込む御令嬢が散見されたなどという文章を読んだ気がしますが)、現代の若者がこの情報社会でセックスのセの字も聞かずに成人するというのはまあ考えにくいでしょう。意味がわからなければ調べるし、調べる手段など無限にあるわけです。

そうすれば「セックスすれば子供ができる」まではわかるはずで(これはわからないというのは相当調べ方が悪かったか何かでしょう)、それなら「男性器を女性器に突っ込んで射精すれば、そこで染色体物質が放出されてくっつくのね」くらいまでは納得できるはずなのです。

 

しかしまあ、現実にそうはなっていないわけで、おそらく生物の授業を真面目に聞いていなかったのでしょう。それかよほどの深層の御令嬢で、なぜ生理が来るかにすら関心を持たないで成人まで全く無知識のまま育てられたかのどちらかでしょう。そうでなければ、そもそもあまり深いことに関心がなかったのでしょうが、これが教育の敗北なのか怠慢なのかは些か議論の余地がありそうです(笑)。

ともかくも、非常に不可解なことに「妊娠の仕組みがわからない」という成人女性が存在するわけですが、私はこれに首を捻りつつも、とりあえず自分の性教育の履歴書とやらを書いてみようかと思い至ったわけです。

 

思い返して見ますと、私が初めて「性」らしきもの、さらに言えば「セックス」らしきものの存在を認知したのはおそらく小学生の頃だったと思います。一番初めに記憶にあるのは、母が買ってくれた『ベルサイユのばら』(世代がかなり離れますが、歴史漫画が好きだったようです)で、オスカル様とアンドレが何やら裸で抱き合っている……というシーンを見たのが初かもしれません。

ですがそもそも『ベルサイユのばら』はしょっちゅう登場人物が裸(というか精神の表現なのでしょうが)になって「おお神よ!」とかしている漫画でしたから(笑)、私はさっぱり気にせずに「またなんか難しいこと言い始めたなぁ」程度に思っていたかと思います。「カストルポルックスってなんやねん」という疑問の方が大きかったかもしれません(笑)

ただそれが、ベルばらのLINEスタンプを親に買ってもらって、「怖い……」というセリフと共に用意されているオスカル様のスタンプ(つまり例のシーンの直前の)を、なんの気なしに多用していたら親に苦言を呈されまして、「なんで????」と純粋無垢な顔で聞いた当時の自分……/////母にはかなり申し訳ないことをしました(笑)ですがここで、私は「怖いってそういう意味じゃない」という母がなぜ困った顔をしているのかわからず、つまりこの時点ではオスカル様が何を怖がっていたのか(笑)は理解していなかったということですね。

他にも成田美名子の『CIPHER』(世代がおかしいのは無視してください)で、主人公の少女が「私バージンなの」と唐突に言い始めたシーンで「バージンってなんぞや」と思った記憶は鮮明ですし、結局幸いにも(?)親がその時不在だったことで聞くことはありませんでしたが(良かったよ)、当時はそのあたりのことは全く理解していなかったわけです。母の集めていた漫画を読み漁る小学生としては、正直性に関する言及はかなり「意味わからん」のオンパレードで、ただまあ仮にも少女漫画、しかもかなり乙女チックな方を読んでいる限りは、直接的な描写には(ベルばらを除いて)出会わなかったわけです。

 

そんな私が「初めて」、ベルばらのようなよくキャラクターが裸で悶えるようなおセンチな作品でもなく、直接的にそういった表現に触れたのは『校舎のうらには天使が埋められている』という、当時小学生の間で密かに流行った(?)いじめ漫画の中でのことで、女子中で回し読みしていたのですが、まず序盤で主人公(ではなかったような気もしますが)がクラスのいじめの一環で、皆の前で彼氏に半ばレイプまがいのことをされるシーンがありまして(今思うとこれほんとに少女漫画で連載して良いのか??という疑問はつきませんが)、そこで初めて「セックス」という単語そのものに触れたような気がします。同級生は知っている子もそこそこいたようですが、私は高学年になってもその辺りには基本的に無知だったので、その漫画がやはり大きかったかもしれません。因みに同じ漫画の中で、先生同士がしっかりお楽しみ中の描写(下着姿で乗っかっている)もあり、こちらは「禁じられた遊び」の気分で(笑)見ていたような気がします。

 

そしてそのあたりからは徐々にそうした知識もぼんやりとはついてきて、特に私の性教育に大きく貢献したのがちゃおコミックスの『ないしょのつぼみ』というシリーズで、ブックオフで真剣な顔で立ち読みしていた記憶があります。生理だとか胸が膨らむとかその辺の体の変化に関する知識は、おおよそここで仕入れて納得した感がありますね。

あとはまあ、歴史漫画(里中真知子や青池保子など)を読んでいれば「結婚」だとか「初夜」だとか、そういうシーンはどうしても切り離せず出てくるもので、「床入り婚」とか変なことに詳しいのは主にこの辺りの影響ではないかと思います(主に『アルカサル王朝』のせいです)。フラワーコミックなどにも手を出すようになると途端にかなり直接的な描写も増えまして、『夢の雫黄金の鳥籠』という篠原千絵さんの漫画で、スレイマン一世に囲われた少女(後のヒュッレム王妃)が初めてのお召しで云々……というあたりで「なに!??何が起こっているの!??」とオタオタした記憶があります(笑)

母に見つかるとなんだかまずそうだと(そんなこともない気がしますが)、こっそり自分の部屋でドキドキしながら読んでいましたね……可愛いかよ。

 

で、まあ一回その辺りの知識がついてしまうとこの情報社会、スマホ一つでどこまでも好奇心を追求できてしまうわけで、例に漏れず私もどんどん検索をかけてはキャーキャー言いながら足をバタバタさせていたような気がします。しかも私のチョイスがまた些か渋いというか、いわゆるティーンズラブとか青年漫画とかにはそれほど興味もなく、後宮ものだとか政略ものだとかが小説漫画問わずお気に入りだったせいで、セックスそのものよりも「後継」とか「妊娠」とかの方が物語の性質上重視されて、それもあって妙に「仕組み」に詳しくなってしまった感があります。ちなみにその嗜好はいまだに健在で、pixivではハリーポッターのキャラクターの一人であるベラトリックス・レストレンジの二次創作をR含めて書きまくっているのですが、このキャラが私の好みにクリーンヒットした理由の大きな要因に「政略結婚したお貴族様」「帝王(上司?)のお召しで(??)子供を産んでしまった人妻」という設定があるような気がします。

 

その他小説や漫画以外でも、例えば洋画なんかは濡れ場のオンパレードですし、中高生の頃は身近な男子同級生がからかってくるだとか猥談しているだとかもあり、知らないでいる方が難しいという状況ではありました。ただ確かに「映画」「猥談」「青年誌」のあたりからは「妊娠の仕組み」だとか「性教育」というのは少し難しいかもしれません。「少女(女性)漫画」や「小説」などであれば、多少は詳しく「どうしよう妊娠しちゃったかも」だの「検査薬買わないと」だの「生理が遅れてて真っ青に」だの、セックスと妊娠を紐付けて描写する傾向が強いため、その意味で女性の方が性教育は男性よりしっかり知識が身についている可能性が上がるのかもしれません。

 

それにしても、大学生にもなって「妊娠の仕組みがわからない」「避妊しなくて良いのか心配」「何が正しい避妊の方法なのかがわからない」というのは問題ですね……

因みに私の学校は性教育もきちんとやってはくれましたが、雰囲気はお通夜でした(笑)女子の表情のカッタイこと、男子のなんとも言えなさそうな気まずい顔、先生の奇妙なほど淡々とした(しようとしている)態度……今思い出しても相当笑えます。

皆さんの性教育の履歴書はどんなものでしょうか??これを機に思い出してみるのも話のネタとしても面白いかもしれません。

 

 

自己紹介と物書きの性別というものに関して

初めまして、Morです。

Twitterとかpixivもこの名前でやっているので、もしかしたら初めましてじゃない方も一万人に一人くらいはいるかもしれないし、いないかもしれない。

 

プロフィールにもある通り、突き詰めれば私はただのオタクです。BL苦手で百合は好きとか言ってるので性別若干不明ですが、普通に(?)女性です。

私はSNSで初めましての人には性別誇示しがちなんですが、これは男性集客目的ではなくむしろ女性のためですね。私個人として、特に小説とか映画の感想って、同じこと言ってても性別が違うだけでガラリと印象が変わると思うのです。

ポリティカルコレクトネスはともかくとして、まあやはりこの世には男同士でしかわからないことや女同士でしかわからないことというのは多々あるもので、書いている人の真意がどこにあるかとか、それをどう受け取れるかは性別で結構変わって来ます(私はね)。

小説でも『人間失格』や『ノルウェイの森』で「女なんて〜なもんだ」と言われりゃ腹も立ちますが、『グイン・サーガ』や『高慢と偏見』で「女というものは〜」と言われても別に何のこっちゃないわけです。勿論時代や個人の価値観はありますし、どーーーしても同じ女としてもオースティンは受け付けないという人がいたって別に何の不思議もないわけですが、同じことを男性が言っているよりはなんぼかマシな気がするのは私だけでしょうか??

 

まあ平たく言えば、男性の書く文章はどうしても男性の目線と論理が働くし、女性もまた然りというわけで、これがシェイクスピアとかにまでなってくれば不思議と性別を超越し始めるわけですが、そんな天才でもない限り性別というのには結構縛られてしまうように思うんです。ジェンダーの問題はあるかもしれないけど、これはむしろセックスの話で、生物としてどうあるかという根本的なレベルの話なので、心の性別とはまた別なのです。(まあ私トランスジェンダーじゃないし、トランスジェンダーの知り合いもいないから結局のところはよく分かりませんが)

 

そもそも私はおそらく、一人称形式の小説があまり好かないのでしょうね。特に男性一人称で、男性の作者の小説は本気で何を言っているのか半分もわかりません。世間一般の評価は高いですが、太宰治なんぞは正直「なんじゃこの自意識過剰な厨二男性は」と思えてしまうのが正直なところ、村上春樹は『ノルウェイの森』を読もうとして序盤の方の何とも言えない男性目線の文体にギブアップしてしまいました。とは言え村上春樹くらいは……そのうちなんとか……いつか読む……かもしれない?

 

そんなわけで私の読む本は基本的に女性作者のものに集中しています。それを選んで読んでいるというのもあるし、「これ良いな」と思ったら女性だったということが多いのもあります。桜庭一樹さんとか、名前から最初絶対男性だと思っていたんですがね。『金田一少年の事件簿シリーズ』の作者が女性だと知った時も大層驚きました。

英文学ではやっぱりオースティン(『高慢と偏見『エマ』)やオルコット(『若草物語』)、エミリー・ブロンデ(『嵐が丘』)のあたりが好きですし、勿論J.Kローリングにすっかり魅せられてもいるわけです。

日本でなら栗本薫(『グイン・サーガ』)は勿論、桜庭一樹(『GOSICK『私の男』)や上橋菜穂子(『獣の奏者』)、中学の頃はライトノベルの『少年陰陽師』(結城光流)にめちゃくちゃハマっていた記憶……

とは言え、男性作家の本は読まないなどということは決してありません。神永学さんの『心霊探偵八雲』シリーズとか好きでしたし、ディケンズは全般的に肌馴染みがいい。シェイクスピアのファンでもありますし、バルザックの『ゴリオ爺さん』とかオイオイ泣いて読みました。

 

基本的に格式とか伝統とか好きなタイプの人間なので、「何十年何百年と読み継がれているものには、それだけの価値がある」を座右の銘に、古い作品を好む傾向があります。純粋に当たりが多いですしね。

「面白い」が欲しいだけの、一時の快楽のために消費するだけなら正直なんだっていいわけですが、やはり文学の名を冠する本にはそれ以上の何かがあって、「感動する」という体験を得たいなら手っ取り早く古いものに走った方が良いわけです。ベストセラーを毛嫌いする人がたまにいますが、あれはよくわからない心理ですね。とりあえず読んでみりゃ良いじゃないかと。まあそれで、私の村上春樹みたいに撃沈することもあるわけなので100%ではないですが、食わず嫌いはよろしくない。

 

まあそういうわけで、私は男性の作品も読むことは読みますし、好きな人の作品は好きですが、全体的にはやはり女性作家贔屓の傾向があります(シェイクスピアは別として)。腹の立つことが少ないからです。

 

と言いますのは、先ほど何冊か本を例に挙げていましたが、私は結構格式ばった「王家の青い血」とか「貴族の誇り」とかそういうオールドファッションな代物を「これは創作だ、文句あるか!」とばかりにポリコレの叫ばれる世界の真ん中で堂々と楽しむのがまた大好きなのでして(性格が悪い)、ハリーポッターではグリフィンドールよりスリザリン、何ならデスイーターが好きな部類の人間なのですね。

そうするとまあ、当然のことながら格式のある歴史と伝統は常に男尊女卑構成で成り立って来た事実があるわけで、おまけに書かれた時代が古いとなると更にポリコレで検挙されること待ったなしの差別発言の山がこんもり積み上がってしまうのですが(性別だけでなく、身分や生まれ、人種なども絡んできます)、こと性別に関しては「男の作者にそれ言われると腹立つ」というようなものが結構多く(特に太宰のようなすけこまし人間は私は好かんので尚更)、必然的に読まなくなってしまうのです。

 

女性の作者ならば、例えば男性キャラクターに「これだから女はいかんのだ」とバカ真面目な顔で言わせていても、それが本気とは思いません。大抵は女性キャラクターの反論や弁明が後々セットで効いてきますし、むしろ「こういう男いるよねー」という共感と共にポジティブに受け取ることが出来ます。

最近一番「作者が女で良かった」と思ったのは『グイン・サーガ』という小説を読んでいた時で、皇女様が淫魔の悪漢に誑かされて誘拐された挙句すっかり汚されて主人公に救出される……みたいな下りがあるのですが(これだけ聞くと最悪だな)、その攫われた先には色々あって別の国の王子様もいて、やっぱり淫魔に好き放題拷問を受けていたらしいという話になっているんですね。

で、まあこの皇女様というのがまあ可哀想なことにあまりにも平凡に素朴で、皇族の誇りはあっても自制心は全くないというような娘だったせいもあり、せっかく救出に来てくれた人格者の主人公相手に「ほっといて!!死なせて!!帰らない!!」と喚きたい放題の言いたい放題したせいで、周りの家臣たちのご機嫌をだいぶ損ねまして、「王子は同じような目にあってもあれほど凛としてらっしゃるのに、姫はなんと見苦しい」的な評価を受けてしまうわけなのです。

「男だった分、なおのこと王子の方が辛かっただろうに」という感想を漏らすものもおり、王子本人もそういうのですが、正直私はここのところがどうにもさっぱりよくわからず、ただまあ男性同士ならそういう感想も出てくるものかなあとは思うのですが(作者は女性なのに凄いなあと思いますが)、むしろやっぱり皇女様の方がずっと可哀想に辛そうに思えるのです。そしてこの台詞を書いていたのが男性作者なら、それがどんな意図であれ、おそらく私は不愉快に思って本を閉じてしまっていたのではないかなと、「お前に何がわかるんだ」とばかりに同性である皇女の肩を持って(作者相手にすごい言いようですが)憤慨していたような気がしないでもないわけで、そうしたことを考えてもやはり女性作者であることが私の読書にもたらす恩恵は大きいのですね。

 

まあそういうわけで、私は女性ですし、女性として生きて女性として小説を読み映画を観る人間なので、私と同じ感性を持つ「男性」にはあまりこのブログは面白くないかもしれません。

女性大好きなので、私自身としても女性読者大歓迎というのを公言して憚りませんし、それで良いと思ってもいます。男性読者も別に拒みはしませんが、現実でもSNSでも男性と絡むとちょっと面倒くさいことが増えるので、趣味ブログに呼び込もうとはあえて思いません。

 

気のむく人は気のむくままに〜

ではまた